19. 12月 2022
(Photo: 自由学園、他全てNeoplus Sixten Inc.)
遠藤新による自由学園女子部 一連の校舎群とその景観全体が、東京都有形文化財に指定されたことを受け開催された見学会に合わせ、キャンパスを撮影できたので紹介する。
Tokyo tangible cultural property, Jiyu Gakuen, by Arata Endo (Frank Lloyd Wright's chief assistant).
「東京文化財ウィーク2022」の一環で、東久留米市にある「自由学園」が特別公開された。見学会は3回に分けられ各回定員30名であったが、募集開始後数時間で定員に達したそうで、その関心の高さが伺える。
各回とも女子部高等科生の有志が学園生活や校舎の使われ方などを、建築や歴史については自由学園明日館館長・福田竜氏(右端)が解説を担当。
東久留米市にある10万㎡の広大なキャンパス。
自由学園は羽仁吉一・もと子 夫妻の教育理念に基づき、フランク・ロイド・ライトと共同で遠藤新によって設計されたキャンパスで1921年に西池袋に開校。そのとき建てられた校舎が現在国の重要文化財である明日館だ。
しかし西池袋の敷地はすぐに手狭になり、1925年にはこの東久留米市南沢(現:学園町)の土地を取得、30年には初等部が完成。34年の女子部校舎に続き、35年男子部校舎も完成。これらの校舎の設計をすべて遠藤新が手掛けた。その後の増築や改築、関連校舎の設計を息子の遠藤楽が手掛けた。
約4,000本の木々が植わる緑豊かなキャンパス。
森の丘を抜けると現れるのが「女子部体操館」(東京都指定有形文化財)
広い芝生広場を前面にもつ女子部体操館。両翼は教員室や校長室、生徒委員室が並ぶ。
なだらかな起伏を持つ敷地で、芝生広場の下は立野川が暗渠になって流れていて、かつては水田と、奥(北側)は段丘になって畑だった。
体操館から芝生広場は連続し、伝統の体操会では館内から生徒が飛び出してきて演技を始めるそうだ。
この芝生広場は高等科1年が手入れをしていて、ほかにも学年ごと、委員ごとに分担しキャンパス内の手入れや清掃の多くを生徒自らが行っている。
両翼にはパーゴラと水盤が設えてある。水はライト建築では密接に係わるものが多いが、ライトの影響を色濃く受け継ぐ遠藤新も随所に水盤を抱える建築を設計している。
体操館の北側。水平に広がる低い屋根が強調されている。
土地の起伏を活かした立体的な動線。
目立たないところでも美しい構成が見られる。
体操館のエントランス。
ホールは半円の扇形で、南側全面に両開き扉とハイサイドライト。
オリジナルの柱は木だが、後に鉄柱で耐震補強されているのが確認できる。
天井の梁は放射状に求心性を持たせてあり、外観も内部もシンメトリーだ。
ここでは文字通り体操を行ったり、音楽の授業やダンス部の練習なども行われる。
川が流れていることからも、この辺りが敷地の一番低い場所。希に浸水被害に遭うため、オリジナルから10cmほど床を上げてある。
10年ほど前に暗渠のボックスカルバートが大型のものに改修され、その後は浸水被害はないという。
体操館のピロティから見る「女子部食堂」(東京都指定有形文化財)
こちらもライトの明日館を彷彿させる佇まいで、切妻と縦格子意匠はキャンパスのほかの建物でも採用されている。
回廊で囲われた中庭を持つ。体操館を山門とし、そこから両翼に延びる回廊、回廊の東西に建つ教室が庫裏、その外側に建つ講堂、そして中央の食堂が金堂と見立てれば、まさに伽藍建築のような配置。
まだ給食のなかった時代に、育ち盛りの子どもたちに栄養のある温かい昼食を皆で揃って学校で食べられるようにしたいと創立者が願ったことから、明日館共に学校の中心に大きな食堂が配置されている。
食堂のエントランス。黒板には、その日に生徒がつくる昼食の献立が書かれる。
ここで女子部の高等科、中等科の生徒全員で昼食を摂る。
コロナ禍前はテーブルを合わせて学年の異なる生徒が10人くらいずつで食事していたが、現在は交代で2学年のみ食堂に入り教室のように一方向を向き、そのほかの学年は教室に食事している。
エントランスから低めの天井を経て、一転、気積の大きな空間とする手法もライト譲りだ。
直線的な構成でデザインされた大開口。
明日館にもある大谷石の柱、ガラス球を用いたオリジナルデザインの照明。
大谷石の仕上げは至る所に見られる。
空間は中央の天井が高くシンメトリーで両サイドが低くなる。
左右のオリジナルの柱から離して耐震補強の柱が追加されているのが確認できる。補強柱の上には梁も追加され仕上げで覆われているため、その分ハイサイドライトが少し奥になっている。
両サイドの奥は増築されており、遠藤新の息子 楽(らく)が手掛けている。増築された側は中庭が近いことも相まって、中央の大きな空間とは異なりカフェのような雰囲気だ。
食事の司会は生徒が行う。また、その日昼食を作った学年の料理リーダーの生徒が、献立等を報告する。
献立の一食あたりの費用と栄養を計算し、自分たちが食べているものの実態も把握する。
調理室。毎日中等科、高等科(3年生を除く)のうち1クラスの半分が6学年約240名分調理し、もう半分が片付けをする。3校時目から調理を始めるが時々昼食開始時間に間に合わないこともあるそうだ。炊飯は薪を使って火起こしから始め、二つの大釜で炊く。
また男子部でも1999年度から高等科2年生が男子部全員分の食事作りを始めた。
現在は、2024年度より始める予定の共学化に向けて、中等科1・2年生は男女一緒に、また男子部高等科1年生も調理をしており、生徒がつくった昼食を皆楽しみにしている。自分たちの食事を協力して作ることが、食の営みにかかわりながら、“感謝する心”と“教養”を身につける機会となっている。
暖炉は食堂正面の中心に。ライトの「暖炉は団らんの象徴として建物の中心に置くべき。」という言葉を遠藤は守っている。
暖炉や炊飯に使う薪は “燃料委員” という担当の生徒が、薪割りから準備する。奥は小食堂。
小食堂。 かつては来賓用の食堂として使用されていた。
表裏一体の暖炉はライトも遠藤も多用する。
ダイニングの椅子は明日館と同じものだ。
食堂を出る。回廊の各所に据えられた行灯型の照明は明日館と同じデザインだ。
しっとりとした光に包まれる回廊。
回廊から数段上がって各教室棟となる。
手洗い場も回廊に。
回廊に美しい中庭を切り取る開口が設けられている。心憎い演出だ。
教室棟に挟まれて池が配置される。これらの池や、回廊、手洗い場も含めて有形文化財だ。
「女子部講堂」(東京都指定有形文化財)
エントランス。体操館、食堂同様ライトから受け継ぐ手法で狭く暗めの空間から、広く明るい空間へ助走するための空間だ。
明日館の講堂も遠藤の設計でよく似ている造りとなっていて、中央の天井を高く、左右を低く抑え床を一段上げている。これにより屋根を小さくでき、座席からは演壇が見やすくなる。
キリスト教精神を土台としている学校なので、毎朝ここで教師や生徒が司会をして礼拝が行われる。
演壇の右手には創立者である羽仁夫妻の写真。置かれている椅子にいつも腰掛けていたそうだ。
後方には小教室と2階が見える。
小教室は、境の引戸を開くことで講堂の収容人数を必要に応じて増やせるようにと設けられた。現在は教室として日常的に使用されている。
建物東面には水盤と前出の池が連続する。
南面は食堂と同様の意匠。
今回案内をしてくれた生徒に、なぜこの学校を選んだのかと尋ねたところ。「初等部からいるので初めはもちろん自分の意思ではなかったと思うが、次第に女子部の校舎への憧れや、身近にいる先輩達の活動や振る舞いがかっこいいと感じていたことが進学への動機として大きかった。」と答えた。
案内をしたことでの感想
「私達も(福田竜氏の)建築解説を聞き、初めて知ったことが沢山あった。今回客観的に皆さんにお話することで自分たちが恵まれた環境で過ごしていることを感じ、このキャンパスを誇りに思った。」
「自分たちが当たり前に過ごしていて気付かないところを、皆さんが色々写真に撮っているのをみて『そんなとこ撮るんだ!』と、魅力に気付いてくれ目を向けてくださって、このキャンパスにいることができて本当に良かったと思った。」
「学園新聞」第55号(1934年3月自由学園発行) 「新築校舎の建築について」と題して遠藤新が書いた文章
現代の言葉に書き起こすと以下のようになる。
「南沢の学園用地はご承知のように丘と水田と畑と三段になっています。今度の校舎は水田を隔てた畑地を占めて建てられます。
まず一番奥の中央に食堂、食堂前に芝生の中庭、この中庭を挟んで、四棟の教室、そして一段低めて体操場、体操場の両袖に委員室と教師室、この両袖からパーゴラが長腕の様に延びて抱えるように運動場。
この運動場で南の丘にとりつくのです。
そして講堂は一段高く西に独立して全体の調子を引き立て、教室の間の池ある中庭を通じて食堂前の中庭に連絡します。
さらに右手の奥の林の中に化学実験室、今のセトルメントは美術室という配置です。
言わば、体操場が前衛で、講堂は大本営で本陣に測行するといった陣立て。
ここで一番大切なことは、(建築はいつでもそうですが)考えるのは校舎のことや校舎の配置及びその設備だけではないことです。南沢特有の三段地、丘、田園、畑を打って一丸とするという考えです。
それには現地の諸相と併せて学校将来の展望をハッキリと頭に書かなければなりません。
もっとも校舎が、皆さんの自由学園の生活や生命を具象し、且つ更にインスパイアする底のものでなければならないことはもとより言うまでもありません。
ミスター羽仁は二月の中頃からは殆ど毎日3、4時頃から夜の10時まで私の製図室に詰め切りに通われて、私と一緒にあらゆる想像力を傾けて考を練りました。
皆さんの考えられた要求は大変結構でした。それぞれそのままでなくとも何らかの形で満足されていると信じます。建築がいかに全体的なもの総合的なものであるかをこの際、そして建築の進捗の間、よく気をつけてご覧になっていただきたい。」